2月4日の臨時総会で、代表 佐藤彰一が退任いたしました。その時の挨拶を掲載します。

退任ごあいさつ

佐藤彰一でございます。

ここ数年、私どもネットワークの総会の前後に、私のミニ講演会が設けられているのですが、今年は、私が代表を退任する予定ですので、退任のあいさつをせよというのが、事務局からの依頼でございます。

なんのお話をしたらよいのか、迷いましたが、「その人らしく生きる」という皆さんご存じのお話をさせていただきたいと思っています。

1 自分らしく生きる

私たちは、その人らしく生きるとか・自分らしく生きるという表現をよく使います。でもこれって何のことなんでしょうか。先年、お亡くなりになりました同志社大学で憲法を教えておられた竹中勲教授が私に会うたびに質問されていたことです。竹中教授曰く、あんた「その人らしく」っていうけど、それはどう意味だ。英語でいうとどうなる。自分らしくと意味が違うのか。厳しい質問でした。なかなか答えにくいので私は言葉を濁していたのですが、それをテーマに小さな研究会をやろうと言っておられた矢先に竹中先生がお亡くなりになってしまいました。大変、残念ですし、この問題は、私への宿題になっております。

私は、「その人らしく」も「自分らしくも」意味は変わらないと思っていますが、ではどんな意味なのか。自分の人生を自分で作り上げるということなのでしょうが、振り返って考えてみますと、自分の人生を自分で作っている人は、実際にどれぐらいいるのでしょうか。自己決定だ意思決定だといいますが、「自己」ってなんでしょうか、「意思」ってなんでしょうか。考え出すとよく分からない言葉です。

極端なことで説明しますと、だいたい、みなさんは、この世に生まれたいと思って生まれましたか?、私は気が付いたら生まれていました。自分で選んだ人生ではないです。小学校、中学校、高校、大学、そして大学院と通わせてもらいましたが、自分で決めたという実感があるのは、大学院ぐらいで、他はまあ行けるところにいくという感じでした。自分が決めたわけではありません。

大学教員に29歳の時になりました。これも自分で選んだというよりは、そこにポストがあるから赴任したという感じでした。

2 新聞屋でした。

大学教員になるまで、私の実家は新聞屋でしたので、ずっと新聞配達していました。朝4時ぐらいに起きて、京都の西陣の界隈を新聞を抱えて自転車で走りまくる毎日でした。朝6時ぐらいには店に帰るのですが、眠いのですよね。というわけで二度寝すると学校に遅刻します。高校では担任の先生に怒られましたし、大学では恩師のゼミの先生に不愉快だと言われました。まあ、授業にでないで、今日はどんな授業でしたかって後で研究室に聞きにいくのですから、そう言われて当然でしょう。

その新聞配達をしていたときに強烈な経験をしました。

1) みなさん、オイルショックという言葉をご存じでしょうか。1973年10月に始まった世界的な経済危機のことです。日本中のトイレットペーパーや洗剤が、どこかへ消え失せました。報道各社は、トイレットペーパーはどこにいった、洗剤はどこにあるのかと書きまくっていました。そういう新聞を私は配っていたのですが、トイレットペーパーも洗剤も、私の店の押し入れにうずたかく積まれていたのです。非常に奇妙な経験でした。

このときに若き青年であった佐藤彰一は、報道というもの対する根深い不信感をもちました。いまは、その不信感は少し緩和していますが、まだ残っています。

2) もう一つは、役所の公務員に対する嫌悪感ですね。新聞代金の集金というのは、これは大変な作業なのですが、役所にいくとお役人が、文句をたらたらいうのです。私みたいな若造に言っても仕方ないだろうとおもうのですが、お前とこの新聞は届くのが遅いとか、中身がないとか、なんでそんなことをただの若者にいうのか分からないし、とても嫌な思いをしました。結局、彼らは、弱いものに文句をいうしかすべがないのだなあ、と思ったものです。世の中こうすべきだとか、社会はこうあるべきだとかって、役所の中では言えないのですよ。その不平不満を、関係ない新聞屋の若造にぶつけて自己満足をするわけです。役人に対する不信感は、その後の私の人生に大きな影響を与えました。

3 障害者の親として

さて、大学教員になった私は、どんな生活をしていたかというと、いわゆる書斎派と呼ばれる研究者です。一日中、研究室にいて本を読んで誰にも会わない、それで自己満足的な思索をあれこれして、妄想・空想の世界に生きているわけです。ひょっとすると自分は天才かなどと思う日々を過ごしていました。自分の名刺というものを皆さんもおつくりになると思いますが、当時の私の名刺は一年間に10枚もはけないです。いまは違います。ひと月で20枚ぐらいは使ってしまいます。

私の人生で、なにが変わったのか。やはり障害をもった子どもが生まれてきたことが決定的ですね。これも別に私が選んだわけではありません。突然、重度の知的障害者の親になったのです。

二人目の子どもだったのですが、長男とはあきらかに発達が違う。それに気が付いていたのは家内ですが、能天気な私は、気のせいだろうということで家族全員で留学に行きました。

勉強に行ったのか障害者介護にいったのかいまとなってはよく分かりませんが、UC Berkeley  とStanfordで交渉論の勉強をしました。San Franciscoの街中にある民間調停機関で調停の訓練も受けました。すべてはとても刺激的でしたが、やはり次男の状態が毎日、課題です。Berkeleyにある無料の医療クリニックに相談に言ったら、そこの医師がいきなりボールペンを壁に投げて、次男がそっちをみたことをもって、「ほら見ろあんたのお子さんはちゃんと認識ができてる、心配することはない」なんて、わけのわかない慰めを言われてとぼとぼ家内と一緒に帰ったこともあります。Oaklandにある子ども病院で専門的な診断を受けて、そのときに初めて自閉症であるという宣告を受けました。うすうすは気が付いていたことだったのですが、はっきり言われると、やはりショックでして、能天気な私は、相手の医師に、あなたの診断はどれぐらいの確率で誤診するのですかと聞きました。その専門医は大笑いして、まあ25%ぐらいかなあと応えてくれました。今思えば、これ、医師としては相当自信がある回答ですよね。

その医師のアドバイスは、あなたは日本に帰ったら、すぐに親の会とコンタクトをしろ。それから専門医を探せ、でした。そして、あなた(私)の次男は意思疎通ができないだろう、それから物事の予想ができない、そして周りの人たちの感情が読みとれない、こういう特徴があることを親として認識しておいた方がいいとも言われました。これは、すべてその通りでした。ただ微妙にそうでもないといまは思っていますが。医師は外国人である私に分かりやすく説明するためにストレートな表現をしたのだと思います。

日本に帰国してからも、しばらく書斎派の研究者を装って人生を送っていたのですが、40代なかばで、なにかが違うと思い始めました。学会に参加しても研究会にでても、自分の人生と接点がない、こんなことやっていて家族にとってなんの役に立つのだ。自分らしくないと思ったのですね。

そこで、やったことは弁護士登録して障害者とその家族の支援活動をすることでした。でも、いままでなんの活動もしていない弁護士に相談なんかないですよ。最初にやったことと言えば、地元船橋を拠点にした成年後見の支援法人の設立でした。2005年のことです。これは千葉県内の親の会のみなさんの要請をうけてのことでした。

そうこうしていると、大阪の上田晴男さんという人が私のもとを訪ねてきて意見交換をしたいという申し入れをいただきました。最初は2004年だと記憶していますが、本格的には2007年になってからです。上田晴男という名前は聞いたことがありましたが、それまで、お会いしたことはなく、いったいなんだろうと思って交流を重ねていますと、近々全国的な権利擁護の団体を作りたい。ついては、その代表に就任してもらいたいというお話がでました。どんな団体なのかわかりませんし、なんでわたしに代表をと言ってきたのか、そのいきさつも分かりません。いまにして思いますと、私は変な人間だったようです。研究者で親で、そして法律の実務家で社会活動もしている。そんな人、今回、退任にあたって探してみましたが、いないのですよ。まことに変な人間です。

訳がわからないまま、2009年にキックオフの全国イベントを灘尾ホールでひらきまして、9月には設立総会を西宮でひらきました。それが代表就任の最初です。自分らしくなんてぜんぜんないですよ。訳が分からないまま代表に据えられてあとは上田さんに動かされていたチーママですよね。これが私の人生でした。

4 権利擁護支援ネットワークの活動は、わたしにとって素晴らしいモノでした

1)日福の研究会

二つ程指摘したいとおもいます。一つは日本福祉大学との連携です。これも上田さんが仕組んだ話ですが、日本福祉大学に権利擁護研究センターを設置していただいて、そこで年に数回、権利擁護の研究会を実施したのです。法と福祉の理論家と実践者がつどいまして、二か月に一度くらいだったと思いますが、大変刺激的な教えを受けました。いまセンター長をされている平野教授は、みなさんご存じのように地域福祉の大家なのですが、当初は私の話がよく分からない、というか言葉が通じないようなところがありまして、私が、権利擁護のこれこれはここが問題なんだ、法的な課題はこれこれだと説明させていただきますと、自分の研究室にさっと戻られて、私の言っていることに関係する福祉の文献を手渡しくださるのです。岡村重夫とか、Tom Kitwood, Dementia Reconsidered: the Person Comes First(1997).とくに136p(日本語版236p)にある新しい文化と古い文化の対比は、パラダイム転換をビジュアルに概観していてはっとした記憶があります。法律畑の私はまったく知らなかったわけですが、私の話を聞いてたちどころにご教示いただけるわけです。これは大変に贅沢な話でして、福祉研究の大家が私に個別指導をしてくださっているわけです。大変に勉強になりました。

私は「能力存在推定」という言葉をあちこちで使っております。別に世界的にみて変な考え方ではありません。イギリスのMental capacity act 2005には条文に明記されておりますし、障害者権利条約もこの考えをベースにしていることは明かです。しかしなぜか日本でしばらく、こういう表現は採用されることがありませんでした。私が、この考え方を強く主張するのは、まさに平野先生のこの研究会のお陰と言っても過言ではないでしょう。

2)国際交流

能力存在推定との関係では、韓国の法律家や福祉関係者との交流にも言及したいと思います。

これは2013年の8月にソウルやインチョンの福祉館、国家人権委員会、ソウル家庭法院をネットワークのメンバーで訪問したことに始まります。漢陽(ハンヤン)大学の諸哲雄(Je )教授、このかたは法科大学院の民法の先生で当時は韓国成年後見学会の会長を務めていた方です。Je教授が意見交換のための研究会を開いてくださって福祉の研究者や法律の研究者、そして実務家と意見交流を行いました。その時にお会いした仁荷大学校(インハ、英称: Inha University)の朴インファン教授 との交流もいまだに続いています。この方は現在の成年後見学会の会長さんです。

当時韓国は、成年後見制度の改革を行ったばかりで、裁判所も研究者もどう進めるのか、あたまを悩ましている状態だったように思います。特に新しく入った特定後見(日本でいう補助類型に近いものですが、期間限定の制度です)をどう使うのか、難しかったと思います。インチョン福祉館では、市民後見人の養成を行い意思決定支援に着目して支援を行うことを重視していました。日本よりしっかりした考え方を持っている方が多かったと思います。

この意見交換を行う中で日本の現状を私から説明しまして、日本の制度は代行決定と意思決定支援が混濁してること。後見人をつけたから権利擁護ができるというものではない、そして、さきほど申し上げました能力存在推定の考え方も口頭で説明をいたしました。後見ではなくて生活支援が重要、能力存在推定に基づく意思決定支援の考え方、を説明いたしました。こんなことを日本人から聞くとは韓国の方は思っていなかったようで、我々ネットワークの活動に大変、興味を持っていただけと思います。

これをきっかけに東アジア権利擁護カンファレンスをやらないかということになりまして、ほぼ毎年のように国際会議を開いておりました。コロナの影響でここ数年はzoomということになりましたが、昨年2023年は韓国のソウル大学でリアル開催をいたしました。こうした交流はまだまだ続くと思います。こうした国際交流で我々ネットワークが必ず説明しているのが日常生活自立支援事業です。いまの権利擁護の世界的動向の中で後見ではない支援枠組みがいくつか登場しておりますが、見てみますと日常生活自立支援事業に近いものあります。これを1999年の10月から開始していたのですから日本はすごいですよね。ところがご存じのように社協という組織は日本にしか存在していません。そこで国際社会で説明しようとすると非常に苦労するのですが、説明をすると外国の方は必ず驚かれます。

さてこのような国際交流の企画を発案したのは実は先ほど名前を上げました上田晴男さんでして、ここでも私はチーママです。国際的な会合の実施も私が提案したというよりも、韓国のJe先生やPark先生のご提案に賛同しているという側面が強く出ていまして、私が決めているというものではありません。佐藤彰一のその人らしくは、変な言い方ですが、他の人が決めているのです。

5 権利擁護は地域づくり

さて、日本ではご存じのとおり、成年後見制度利用促進法が、2016年に議員立法で成立をいたしまして、2017年度から5年間に渡る第一期計画、そして令和4年度(2022年度)から5年にわたる第二期計画が策定されて、現在動いていることは、ご承知の通りであります。

私どもネットワークは、先ほどらい申し上げておりますように、成年後見制度をいくらいじっても権利擁護支援は進まない、むしろ生活支援が大切で、そのためには地域づくりが重要だと考えてきました。したがって、こうした法制度の促進の動きには当初あまり興味がなかったのですが、第一期基本計画を読んで大変に驚きました。まず「権利擁護支援」という言葉があちこちに出てくるのです。この基本計画が登場するまで、権利擁護支援という言葉を使っているのは私たちのネットワークだけだったのです。この言葉は、なんども出てきますが上田晴男さんの造語でして、私は当初、この言葉は日本語としておかしいと苦言を呈しておりました。動詞が二つ重なっているからです。しかし、いつのころから慣れまして、現在ではこれはSelf Advocacyを支援するという意味だという理解しております。言葉としてちょっと難しいので、現在ネットワークの事務局長をお願いしています愛知県知多半島の知多地域権利擁護支援センターの今井理事長は、「自分で決めるを応援する」と表現されているようです。

さて、政府の基本計画の中でこの言葉が使われましたので、日本国中、たちまちこの言葉遣いが広がりました。なぜ促進室がこの言葉を使ったのか、私にはわかりません(ということにしておきましょう)

もう一つは、成年後見利用促進と言っても成年後見だけの促進を狙うものではないという文脈が色濃くでているのです。成年後見は権利擁護支援のツールの一つにすぎない、ほかにも権利擁護支援のツールはあるので、中核機関はそうしたところにも目配りするべきだ、ということが書かれているように思います。

これは我々と認識を共有できる方向です。なんどもいいますが生活支援が重要ですし、日自なども世界的な動向からみればもっと勧められてしかるべきだと思っています。これも驚きました。

さっそく促進室の方々と意見交換をいたしまして、我々の全国フォーラムや実践交流会にも毎回のようにご参加いただき、みなさんと親しくお付き合いをお願いしたところです

第二期基本計画では、第一期基本計画の趣旨がさらにVersion Upしています。

まず、制度改革に踏み込む。そして地域共生社会論の中で権利擁護支援を位置づけているのです。まさに地域づくりですね。

私たちは少子高齢化社会をこれから生きていくことになります。そうした社会の中で、障害者や高齢者の方が社会参加をされて生き生きとした生活を行われることは大変に大切なことです。そのためには政府や自治体行政の力はもちろん重要です。マスメディアや行政の方に対するネガティブな経験をしていたと申し上げましたが、いまは違っています。どんな組織の中にもいろんな人がおられます。その中で権利擁護支援のセンスを持った方が必ずいらっしゃいます。その方々の力を借りて、少子高齢化の日本を生き抜こうではありませんか。

しかし、そうした行政の人々の力だけでは地域づくりはできません。地域の中で毎日を生きている人々、その人たちの活動が中心です。

私は、代表は退きますが、これからもみなさんと共に地域づくりの末端で生きていきたいと思います。

これまでのみなさんの暖かいご助力、心より感謝申し上げます。私が佐藤彰一らしい人生を生きてきたとすれば、それは私が決めたことではなくて、皆さんが作り上げた佐藤彰一だと思っております。皆さんが、これからもご活躍くださることをお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。長い間ありがとうございました。